古代人に学ぶ 天平時代の感染症対策

 日本列島上に流れた時間の中でも屈指の華麗で絢爛、壮大な一幕を思わせる天平時代に、すさまじい疫病の流行があった。九州・大宰府といえば天平2(730)年に、かの令和の宴が催された場所である。この大宰府から天平7(735)年秋、九州地方での「疫瘡大発」が報告された。一度は収束するかに見えたが、天平9(737)年夏、二度目の大感染が全国規模で起こる。庶民から高貴な顕官に至るまでバタバタと倒れ、朝廷の行事・政務も中止に追い込まれた。

 ボロボロになりながらも、時の朝廷は必死の対策を講じていた。医療の知識を総動員して対策法を選定した。症状の特徴と経過・予後を整理したうえで、それぞれの段階での対処、療養環境、食事、薬品を指示した。この対策法を各地域に浸透させる方法・手順まで命令している。食料支給、税金免除、ヤミ金摘発といった、人々の生活を守る措置も矢継ぎ早に命じられた。神仏への祈祷は言うまでもない。疫病が各地へ広まると、九州から都までの道々で「疫病通行防止」のまじないを繰り広げた。対策の成果か、天平10(738)年には疫病は収束した。その爪痕は深く、西日本の人口の約3 割が死亡したとも言われる。「怨霊」が明瞭に畏怖されるようになったのもこの頃からだ。平城京出土木簡にも、この時期の社会の動揺を感じさせるものが見受けられる。一方、この国難を乗り越えられた背景には、稲の備蓄など「国力の充実」があった。また、この大規模な災厄によって揺らいだ従来の権威を越えた「新しい社会様式」が求められた。その帰結の一つが、国民全体の参加・結集を目指した「大仏」だった。

 病状の観察・把握とそれに基づく対策方法の選定、対策の人々への確実な伝達と共有、公的支援の拡充、生活維持の施策、感染経路の遮断。これらは、最近の新型コロナウイルス対策とも共通する。天平の疫病を乗り越えた人々が大仏を造ったように、われわれはこの先、何か大きな新しいものを生み出すことができるだろうか。なお、この約50 年後・延暦9(790)年に、30 歳(40歳とする記録もある)以下の人々の間で、疫病が大流行したという。これが集団免疫の喪失によるものかどうか、いずれにせよ「歴史」はまだまだ未来の教科書として、捨てたものではないと思う。

馬場 基(ばば・はじめ)

独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部史料研究室長。研究分野は史学、日本史、史学一般。古代史・出土文字資料をはじめ日本史全体、東アジア史など幅広く研究している。

▼出典元 Nursing BUSINESS(ナーシングビジネス)2020年8月号https://store.medica.co.jp/item/130212008

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