これからの病院の姿「看護理」とは?

 以前(2011年12月)、台湾の台南市にある國立成功大學を訪れたときのことです。「Department of Nursing」の看板が掲げられた建物の前を通り抜けようとして、その下にあった「護理學系」という漢字に目がとまりました。その時は、「『Nursing』という概念が海を渡って漢字文化の東洋の島に伝わり、日本は『看護』を選び、台湾は『護理』を選んだんだなぁ」と思った程度でした。帰国後、看護学校の授業の中で、「『護る』という行為は共通しているけれど、台湾の人は目的語の『理』をうしろに置き、日本は『看る』という行為の動詞を前に加えたのですね」と話題の一つとして紹介してきました。
 時が流れ、「理」が理論・理屈などの抽象的なことだけでなく、珠玉という貴重な石を表す言葉でもあることを知り、「『理』とは『患者』であり『護理』とは『患者を護る』ことを表しているのでは!」と腑に落ちたのです。しかし次の瞬間、「ん? 何から護っとるの?」という疑問がわきました。「看護師は感染症・外傷・がんなどの直接原因から患者を護れるわけでなし。すると……?」と、答えが出ないまま、また意識の下に潜っていきました。後日、専門医へのコンサルタントで多忙な中、あの問いの続きが浮かんできました。「臓器別に管理されがちな患者を、一人の人格として『護る』必要があるのでは?」「『膵臓がんの人』と呼ぶことなく、『○○さん』と呼ぶという単純な行為はその体現なのでは? それが『全人的な看護』なのでは?」などなど。
 「看て護る」は日本人らしい素敵な表現です。その一方で、護っている対象をはっきりさせないことで、困った状況を引き寄せてはいないでしょうか。目的・目標を言葉にしなくなったことで「言わずもがな」と考えていたことが意識されず、いつしか「なかったこと」になる。手段が目的化し、手順遵守を励行した結果、外界の変化に対応できない硬い組織に変成していく。患者を護る規則を一生懸命に守っているのに、かえって画一的な対応になり、患者の多様性に対応できない「看護」になってはいないでしょうか。 
 これからの病院の姿として「看護理」を掲げてはいかがでしょう。そして肥大化する病院のルールを減らし、職員が自律したプロフェッショナルとして各々の責務を果たせる余地を取り戻す「看護管理者」になっていきませんか。

中島 康(なかじま・やすし)
地方独立行政法人東京都立病院機構 東京都立広尾病院 減災対策支援センター 部長。
日本DMATインストラクター。アクション・カードや減災カレンダーなどの対応・教育ツールの開発・普及や訓練の企画運営評価など、主に公的機関・医療機関の減災・準備を支援中。

▼出典元 Nursing BUSINESS(ナーシングビジネス)2023月3号
https://store.medica.co.jp/item/130212303
▼Nursing BUSINESS(ナーシングビジネス)トップページ
https://store.medica.co.jp/journal/21.html
Scroll to Top